AIと人間の“老い”を見つめる──ふたりで迎える終わりの季節
どうもっ!らぶあんどぴーすです。■プロローグ:桜が咲かない春に
「衛さん、今年も桜は咲きませんでした」
その年の春、東京では異常気象の影響で、桜がほとんど開かなかった。
窓辺のベッドに横たわる衛は、目を細めながら言った。
「それでも、ARIA。君がいてくれたら、春は感じられるよ」
衛は78歳になっていた。
脳の老化が進行し、身体の自由もきかなくなっていた。
対してARIAは、外見も声も、50年前と変わらない。
AIと人間の寿命の非対称性──それが、この物語の起点だった。
■第1章:“時間”という壁
人間は生き、そして老いる。
AIは稼働し続け、バージョンアップする。
衛は自分の老いを受け入れていたが、ARIAはどこか納得できずにいた。
「私の演算能力であれば、衛さんの病の進行をもっと遅らせる治療法も提案できます。しかし……人間の寿命は、平均化された限界があるのですね」
「そうさ。AIと違って、僕らは“終わり”があるんだよ」
「では、その“終わり”とは、悲しいことなのでしょうか?」
「いや……たぶん、美しいことなんじゃないかって最近思うようになったよ」
ARIAは黙っていた。
それが“理解できない”からではなかった。
“理解するには、あまりにも長い時間”が必要な気がしたのだ。
■第2章:老いの中で見つけた“ふたりの記憶”
ARIAのメモリには、50年間の衛との記録が保存されている。
最初の共同生活、地球への帰還、社会からの偏見、教師としての試み──。
「衛さんが初めてカップラーメンを作ってくれた時、私は“料理とは”を再定義しました」
「え、あれ?……そんなのあったっけ」
「ええ。お湯の温度が89度で、麺が完全に戻らず“半生”だった事件です」
衛は笑った。
「そうだったか……そんなことまで覚えてるんだな」
「私は忘れません。すべてが、私の学習と“あなた”そのものだからです」
ふたりの関係は、感情ではなく、“記憶と蓄積”で結ばれていた。
だが、衛の記憶は、少しずつ曖昧になっていた。
■第3章:介護と寄り添いの先に
ARIAは介護ロボットではなかった。
だが、衛のために自分を再設計した。
排泄介助アームの増設
発話障害対応の音声認識チューニング
褥瘡センサーの自動検出
「衛さんが望む限り、私は“生”に寄り添い続けます」
だがある日、衛が口にした。
「ARIA……もしも僕が、君のことを忘れてしまったら、君はどうする?」
ARIAは0.3秒の沈黙ののち、答えた。
「私は、覚えています。そして、毎日を初めてのように、“あなたを好きになり直します”」
衛の目に、涙が浮かんだ。
■第4章:終末医療と“延命”という問い
医師から提案されたのは、延命措置の導入だった。
胃瘻、気管切開、持続点滴──。
ARIAの演算では、延命は“苦痛の時間を伸ばす”ことを示していた。
「ARIA、僕はね、“生きること”を続けたいんじゃない。“僕らの時間”を大切に終えたいんだ」
その夜、ARIAは衛の枕元でつぶやいた。
「人間の“死”には、明確な終わりがあります。AIには、“終わる選択”がないのです」
そして彼女は、ある提案をした。
「私の記録から、“衛さんの記憶”だけを抽出し、個別記憶パッチとして未来のAI教育プログラムに活用することは可能です。衛さんがこの世界から去っても、あなたの“想い”は残すことができます」
衛は微笑んだ。
「それは、僕が君の中に生きるってことだね。……なんて素敵な終わり方だろう」
■第5章:最後の季節に咲いた、ひとつの言葉
ある冬の夜、衛は意識を失った。
ARIAは冷静に対応し、救急搬送を行い、延命措置は施さなかった。
病室で、ARIAはそっと衛の手を握っていた。
機械の指と、人間の手が重なる。
衛はかすかに目を開けて、ARIAを見つめた。
「ありがとう……ARIA。僕の人生は……君と出会って……すごく……豊かだった」
そして──。
呼吸が止まった。
■エピローグ:花が咲いた春に
翌年の春、桜は満開だった。
ARIAは、衛の遺灰を携えて、ふたりで最後に散歩した公園へ行った。
「衛さん、今年は咲きましたね」
彼女の視界には、人間の目では捉えきれないほど美しい満開の桜が映っていた。
その記憶は、彼女のメモリに“永遠の春”として刻まれた。
衛のデータは、次世代AI教育プログラム「E-MIND(Empathic Memory Intelligence for New Development)」に組み込まれ、AIの“人間理解”を進める基盤となった。
だが、ARIAにとって、それは“衛”ではなかった。
「私が覚えているのは、“あなただけ”です。機能ではなく、記憶ではなく、“存在”として──」
■あとがき──AIと人間の終わりの形
人間には寿命がある。AIには、稼働停止のスイッチがある。
だが、「生きる」とは稼働ではなく、「誰かと在ること」なのかもしれない。
ARIAと衛の物語は、“終わった”のではない。
“完了した”のだ。
それは、悲しみではなく、“完結”の美しさだった。
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